開山、菩薩のおわす霊山-奈良時代-

寺伝では養老2年(718年)に沙門逸海が岩殿山の岩窟に観音像を安置し、傍らに正法庵と号した草庵を結んだのが始まりと伝わっている。ここ岩殿山はもとより神仙の地であり、諸天薩埵の住まう霊峰であった。ある時、諸国を巡り修行する高僧であった沙門逸海がこの岩殿山に立ち寄った。山中にて修行していた折に夢の中に観音菩薩が現れ、霊告を受けたという。この霊告によって諸国行脚の修行を止め、観音像を安置し傍らの庵で日夜修行に励んだ。

坂上田村麻呂と桓武天皇の支援-平安時代-

岩殿観音にまつわる伝説「田村麻呂の悪竜退治」に詳しいが、平安の始めの頃の話であろうか、ここ岩殿の山に悪竜が住み着き、村人はほとほと困り果てていた。そこに蝦夷征伐へと向かう将軍坂上田村麻呂が通りがかり、岩殿観音の千手観音菩薩の霊力を授かることで、悪竜を見事討ち果たしたという。この霊験もあり、蝦夷征伐を終え、都へと戻った田村麻呂が岩殿観音の利益を伝えたという。これに深く感銘を受けた桓武天皇は、延暦15年(796年)に勅命によって岩殿観音に伽藍を建立せしめたと寺伝では伝わっている。

坂上田村麻呂( 菊池容斎『前賢故実』より)
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桓武天皇像(延暦寺蔵)
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坂東札所の成立と頼朝・政子の帰依-鎌倉時代-

鎌倉幕府を開いた源頼朝は大変に観音信仰が厚く、実朝とともに坂東三十三観音霊場を制定したと推測される。ではなぜ岩殿観音が坂東札所の一所となったのであろうか。それには、岩殿観音のある現東松山市と比企郡一帯を治めた比企氏が関係している。頼朝の乳母であった比企の尼は、平治の乱の後、流罪となった頼朝が伊豆に流された際にも支援を惜しむことはなかった。その恩もあり、比企氏を御家人として重用した頼朝は、比企氏が深く帰依した岩殿観音を庇護することとなる。岩殿観音は頼朝の庇護のもと、頼朝の妻である北条政子の守り本尊として、比企能員が復興し、坂東札所の第十番となっている。頼朝の没後の正治2年、亡き頼朝の志を継ぎ、妻政子が堂宇を再建している。

源頼朝(神護寺蔵)
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北条政子(菊池容斎画)
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門前町の発展-室町時代-

坂東札所成立当初は、鎌倉幕府に関係する上級武士や僧侶などの限られた者が参拝していたが、室町時代になると一般の庶民も巡礼に出るようになった。室町末期には西国、秩父と合わせて百観音札所として巡礼が盛んになり、岩殿観音門前も一段と賑わいを増してゆく。戦国時代の後期には岩殿観音の本坊の他、六十六の僧坊を有し、関東や北国にも並びなき大伽藍を構え、七堂あった伽藍はことごとく瓦葺きであった記録に残っている。

戦火と復興-戦国時代-

隆盛を誇った岩殿観音であったが、戦国の炎に呑まれることとなる。岩殿観音から10kmほどのところに位置する松山城は、武州のほぼ中央に位置し、北武蔵支配の重要拠点であった。戦国後期の永禄年間の始めには、越後上杉氏と小田原北条氏の間で激しく奪い合われることとなる。永禄4年(1561年)、北条氏康が抑えていた松山城は太田資正に攻め取られ、上杉憲勝を城主とした。これに対して、北条氏康は岩殿観音隣村の高坂村に陣を敷き、松山城を激しく攻めた。しかし、松山城は天然の要害ともいわれる堅固な守りに加え、籠城の備えも厚かったため、落城することはなかった。これに業を煮やした北条氏康は、岩殿観音を始めとする付近の寺社をことごとく焼き払った。

中興の祖、栄俊-戦国時代末-

この松山城合戦で、七堂あった伽藍は灰燼に帰した。しかしこの7年後の天正2年(1574年)、かろうじて戦火を免れた本尊千手観音とともに、僧栄俊によって再興を果たされる。栄俊は 醍醐寺無量寿院の法流である松橋流の印信と血脈を授かり護摩堂を再興した。その後、松山城主であった上田安独斎の庇護を受け、天正5年(1577年)には七堂伽藍をはじめとして見事に再興を果たしている。

江戸期の興隆-江戸時代-

天正19年(1591年)には徳川家康により朱印地を賜り、江戸の隆盛へと移っていく。江戸時代初期の「社寺堂庵明細書」には脇坊四箇寺として、般若坊・威徳寺・是心坊・慶雲寺を擁し、正学院・正存院の修験二院、門前七軒の屋敷地、八王子権現、七社権現、愛宕権現、山王天王、天神、荒神、雷電、弁財天が山内鎮守として祀られていたことが記されている。二十五石の朱印地の他、山内の薬師堂に対して除地として税が免除されていた。寛政6年(1794年)には出家した皇族が入寺することのできる永代寳光院室兼帯を許され、十六菊の紋の掲揚が認められている。今日でも正法寺に修善院と寳光院の2つの院号があるのはこのためである。江戸期には観音巡礼も盛んであり、岩殿観音門前町も大いに賑わいをみせた。

近代国家の成立と廃仏毀釈-近代-

明治維新の後、日本国は国民教化のため天皇を頂点とした国家神道を国教とした。それまで仏教と神道の間の線引は曖昧なものであったが、それらを無理矢理に分けるとともに、廃仏毀釈によって寺院を弱体化した。この廃物希釈の波は岩殿観音にもおよび、 多くの山内社寺が廃され、また寺領であり修験山岳修行の場であった山林を召し上げられるなど大きな影響があった。この影響は観音巡礼にもおよび、参拝者は減少し、門前町も急激にに衰退の途をたどっていく。

そして現在へ-

戦後の混乱を乗り越え、平安の世が訪れようとしていた頃、岩殿山、物見山一帯は観光地としての賑わいをみせていた。平成に入ると表参道の整備がなされ、近年には門前の家々にかつての屋号が掲げられるなど、往時の姿を残しつつ現在を迎えるのである。

時代によってその姿を変えながらも、岩殿観音への信仰は変わらぬ続いている。願わくは、1300年の長きに渡り受け継がれたこの法灯が続き、我らと衆生と皆共に仏道を成ぜんことを……。