令和4年より始まったNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。鎌倉幕府第二代執権である北条義時(ほうじょうよしとき)を中心にドラマが描かれます。源頼朝(みなもとよりとも)は13人の家臣に支えられ鎌倉幕府を開きますが、頼朝の死後、内部抗争が繰り広げられ最後に残ったのが北条義時です。岩殿観音は、源頼朝だけではなく、頼朝の妻であり義時の姉でもある北条政子(ほうじょうまさこ)、そして13人の家臣のなかでも比企能員(ひきよしかず)と深い関わりがあります。

頼朝の乳母 比企の尼

 後に鎌倉幕府を開くことになる源頼朝は、久安3年(1147)に生まれました。当時、高貴な人々は自身で産んだ子を自分の手で育てることをせず、乳母(めのと)の手によって育てられていました。そして、頼朝の乳母となったのが比企尼(ひきのあま)です。比企尼は、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れを汲む比企遠宗(ひきとおむね)の妻であり、比企遠宗は現在の埼玉県の中央部にあたる武蔵国比企郡を治める小代官でした。

 平治元年(1160)に起きた平治の乱で頼朝の父である源義朝(みなもとよしとも)が討たれ、頼朝は伊豆に島流しとなります。島流しとなった頼朝に、20年間に渡って支援を続けたのが比企尼でした。比企尼は比企郡でとれた米を送り続け頼朝を支えたのです。

現在の埼玉県のほぼ中央に位置する比企地域。比企一族はおおよそこの比企地域を領地としていました。
13人の一人 比企能員

 これに恩を感じた頼朝は、比企尼の甥である比企能員(ひきよしかず)を側近として重用し、鎌倉幕府の成立に至るのです。比企能員は、頼朝の嫡男である源頼家(みなもとよりいえ)の乳母父となり、頼朝の没後は二代鎌倉殿である頼家のもと、十三人の合議制の一人として政務を行っていきます。能員の娘である若狭局が頼家の側室となり子の一幡(いちまん)を産むと、頼朝の外戚として大いに権勢をふるいました。しかし、建仁3年(1203)頼家が病床に伏せると、一幡に政権が移り能員の勢力が増すことを恐れた北条義時によって一族もろとも誅殺されてしまうのです。そして、比企氏を滅ぼした北条氏により、これ以降の鎌倉幕府の執権職は独占されていくことになります。

岩殿観音との関わり

中興の祖 比企能員

 源頼朝は観音信仰に篤い人物であり、坂東三十三観音霊場の制定にも深く関わっています。坂東三十三観音霊場は、坂東つまり現在の関東地方に広がる観音札所です。当時札所を制定するにあたり、比企氏のお膝元であり、比企能員自身も深く帰依していた岩殿観音が第十番の札所として選ばれることになりました。坂東第九番慈光寺、第十一番安楽寺とともに、比企郡では三十三の札所のうち3つが札所となっており、頼朝が厚い信頼を寄せる比企能員の領地から有力寺院が推挙されたことがわかります。古い地図には、岩殿観音にほど近いところに「比企判官領地」とあり、比企能員の館があったともいいます。

 岩殿観音は開山から300年以上が経ち諸堂の痛みも激しいものがありました。そこで頼朝の庇護のもと、頼朝の妻政子の守り本尊として比企能員が岩殿観音を復興します。寺伝では比企能員を中興の祖としており、比企能員の深い帰依のもと復興されたことが見て取れます。頼朝の没後の正治2年には、亡き頼朝の意志を継いだ政子によって堂宇の再建がなされたと伝わります。

いまに残る史跡・伝説

判官塚(比企明神)

 岩殿観音の表参道を進み、しばらく行った先の細い小路を左手に曲がった先には「判官塚(比企明神)」があります。判官とは比企能員の役職名であり、比企能員追福のための社と伝わります。もとは現在の大東文化大学の敷地内にありましたが、大学建設の際に現在の場所に移築されました。移築記念碑にはその由来について、こう記されています。「判官塚は比企判官能員の追福のため、築きしものと言い伝う。その由来は詳ならずと新編武蔵風土記稿に誌されている。健保六年(1218)頃岩殿山に居た能員の孫、員茂は、観音堂の東南の地、南新井に塚を築き、能員の菩提を弔ったという。何時の時代か比企大神として祭り崇め、参拝するようになり今日に至ったもの。このたび、大東文化大学キャンパス開発造成工事に伴い構内となるため、氏子一同相計り現在地に遷し祭る。」

判官塚(比企明神)
比企判官旧地(足利基氏塁跡)

 岩殿観音の北東、表参道の入り口にある「鳴かずの池」裏手の丘陵地帯には、かつて比企能員の館があったと伝わります。岩殿観音に伝わる江戸時代の古地図には、表参道を下った現鳴かずの池の裏手に「比企判官旧地」とあります。

 この地は現在では足利基氏塁跡として知られています。足利基氏は鎌倉公方と呼ばれ、南北朝時代に活躍した武将です。貞治2年・天平18年(1363)に芳賀高貞とこの岩殿山で「いわゆる「岩殿山合戦」が行われた際に、基氏がこの地を館とし布陣したと言われています。この館は合戦の際に基氏が築いたものではなく、もともとあった館を陣地として利用したと考えられており、岩殿観音に伝わる古地図と合わせると比企能員の館跡を陣地にした可能性が考えられています。九十九川と谷筋の湿地が外敵を防ぐ役割を果たしていたこともあり、館を構える好立地であったと考えられます。

 現在は、その旧地のほとんどがゴルフ場となってしまい、かつての累跡の面影はわずかな土塁と堀跡を残すのみですが、残された地形からかつての面影に思いを馳せるのもよいでしょう。

岩殿観音に伝わる江戸時代後期の古地図『比企郡巌殿山之図』
画像右下赤矢印部に「比企判官旧地」とある
比企能員供養碑

 仁王門から石段を少し登った左側に石碑が残されています。この石碑は江戸時代の旅行記である『坂東観音霊場記』に記録が残っています。「入道覚西在鎌倉にして岩殿兼別当たり。よって彼の人滅後に至り鎌倉政所の下知を得て衆徒ら追善の石碑を建てる。金剛密迹門(仁王門)の傍らにあるこれなり」。この入道覚西は比企能員であり、その菩提を弔うために建立されたと伝わります。

 近年の調査により、覚西は比企能員ではないとも推定されていますが、岩殿観音と比企能員との間に深いつながりがあったからこそ『坂東観音霊場記』にも記録が残っているのでしょう。比企一族と岩殿観音のゆかりを感じる史跡のひとつです。

比企能員供養碑
供養碑は仁王門をくぐり、石段中腹の左側に位置する
昔話「くつわ虫」

 岩殿観音には比企能員にまつわるこのような伝承が残されています。
 ー建仁3年秋、正法寺に一人の尼僧が逃れ着く。聞けば鎌倉で謀殺された比企能員の妻であり、身重の身体を抱え、討ち手から逃れて来たという。このころ落人は追手の気配に気がつくために、人の気配を察すると鳴き声を止めるくつわ虫を隠れ家に放っていた。それならば、と和尚はこれ逆手に取って追手に警戒されぬよう岩殿山のくつわ虫を取りつくし、あえて虫の鳴き声のせぬようにしてしまった。その功もあってか、尼僧は見つかることもなく無事に子を産み、討たれた比企一族の冥福を祈るため巡礼へと旅立った。正法寺に預けられた子は、立派に育ち後に武士となったそうだー
 これも比企一族と岩殿観音のゆかりを感じる伝説のひとつです。