観音堂の由緒

すっかり空気も冷たさを増し、岩殿観音も秋の空気に包まれるようになりました。本日は観音堂の来歴についてお話したいと思います。
現在の観音堂は、明治14年に現飯能市白子にある長念寺の観音堂を移築・改築したものです。長念寺より移築される前の岩殿観音の観音堂は、それは大きなお堂であり、石仏の並ぶ崖から大銀杏のあるところまで一杯に大屋根が広がっていたそうです。しかし、この観音堂は明治11年に火災により焼失してしまいます。この失火の責任をとり、当時の住職は山を降りたとも伝わっています。観音堂の焼失後、お堂の再建を急ぎましたが、折しも時は明治の廃仏毀釈の直後であり、焼失以前と同じ規模のお堂を建てるだけの資金がありません。そこで、当時公売に出されていた長念寺の観音堂を購入し、移築することとしました。

岩殿観音に移築された長念寺の観音堂は、亨保19年(1774)に黒田直邦という江戸幕府の老中も務めた飯能の領主によって、その実弟の延貞の供養のために寄進されたものです。江戸の後期に流行した観音札所巡りの白眉といわれるほどのお堂でしたが、明治時代に入ると長念寺でも廃仏毀釈により寺領十石を返上し、建立から150年経った観音堂の修理が困難になってしまったそうです。そこで、長念寺観音堂を公売に出したところ、火災で堂宇を焼失した岩殿観音が落札することとなりました。

東吾野郷土誌には、取りはずした建物はすっかりそのまま一本残らず村々順送りで岩殿山に送り届けられ、束(小さな部材で紛失されやすい)の一本も紛失しなかったとあり、観音さまのご利益あらたかなものがあると村々で評判になったそうです。岩殿観音へ移された観音堂は、そのまま移築をされたのではなく、焼失前の観音堂の姿に寄せるように改築がされたと考えられます。

この観音堂についての来歴は当山にも伝わっておりましたが、詳細な記録は残っておらず不明な部分もありました。しかし先日、長念寺よりご住職の大河原隆道師がお越しくださり、長念寺で明らかにした観音堂の来歴についてお話をくださいました。

長念寺のご住職とともに観音堂の前で。観音さまに繋がれた不思議なご縁を感じます。
(写真右が長念寺ご住職と長念寺のお世話人方)

これから岩殿観音は大銀杏の黄葉や、お山の木々の紅葉に彩られる季節となってきます。ご来山の際に観音さまへ手を合わせられる際には、観音堂の歴史にも思いを致してはいかがでしょうか。